働く、とは?
糸井重里さんのお悩み相談の本を読みました。
働くとは、どういうことだろう、どんな仕事が良い仕事?という話でした。
糸井さんの回答は、よろこぶことと、よろこばれることが重なる場所にいたい、という話でした。
一般に模範解答的なものは、職業に貴賎なし、つまりどんな仕事も等しく、尊い、ということですが、糸井さんとしては、泥棒も、オレオレ詐欺の犯人も、本人の視点では、働いてはいるということになる、それで良いの?という問いが浮かんだようでした。
そこで、さっきの回答になるのですが、なるほどなあ、と思いました。
泥棒はお金を盗む仕事をして、お金が得られて、よろこぶ。
しかし、盗られた方は嬉しくない、よろこばない。
先日、警察を名乗る人物から電話がかかってきました。
事件の捜査線上に私の名前が上がっているとのことでした。新潟県警ですとのことでしたので、それでは、仕事が落ち着いたら新潟県警にかけ直します、と言ったらそそくさと電話を切られました。
どうやら詐欺だったようですが、このような見込みの薄い電話をかけ続けるのはなかなかに骨の折れる作業だと少し同情しました。しかし、やはりこのような相手がよろこばない仕事はいかんな、とも思いました。
自分がよろこぶ、やっていてやりがいを感じる、その行為が相手にとって、よろこばれるものであると、とても幸福なことだと思います。
でも順番としては逆で、相手によろこばれることが先ですね。
需要が先で、供給があと。
よろこばれる行為を仕事としてやっているうちに、行為そのものにやりがいを感じて自分がよろこんでいる、という状況が望ましいですね。
アートの領域だけは逆のこともあるかな、自分の感性で作っていた作品が、人によろこばれる。
私のしごとでいうと、わかりやすいのは手術ですね。
手術をする前や、やっている最中は、よろこばれるという感じではないですが、終わったあとによく見えるようになったと、よろこばれる、すると、わたしも嬉しい。
手術の翌日はまさに、よろこぶこととよろこばれることの重なる場所に居られている感じがして、ありがたく感じます。
ただ、相手にはその時には喜ばれなくても、分かってもらえなくても、長い目でみたらやっておいたほうが良いこととか、社会正義としてやらなければいけない仕事とか、ほんとうは色々ありますよね。